必ずブランディング通になれる3分で読めるエッセイ〜ブランドのチカラ

ブランディング・コンサルタントの経験譚。Barで若きマーケーターとスコッチ飲んで話す気分で。ブランディング & マーケティング・コミュニケーションのあれやこれやを分かりやすく、自分の言葉で。

其の51 ブランドを語った偉人たち~梶 祐輔 ⑥~

f:id:brandseven8:20210430162754j:plain梶氏は著書「広告の迷走」の中で、広告はアドバタイジングとプロモーションに切り分けられるべきで、アドバタイジングは社の長期的な意思を示し消費者からの共感を得て共に成長するもの、プロモーションは短期的な営業目標を達成するその時限りの戦術的施作である、と力説しています。

氏がアドバタイジングと表現している箇所をブランディングという言葉で置き換えると、氏の主張は執筆時から19年を経た今日現在でも、極めて核心をついています、と以前の稿(其の46 )で書きました。

プロモーション目的に好都合で、アドバタイジング (ブランディング)に不向きな、15秒TVスポットという短い媒体が広告投下の主流になった事によって、日本の広告は迷走してしまった、とする氏の主張は、30年以上を広告ビジネスの最前線に身を置いていたプロとして、残念ですが同意します。

さて、本稿ではこの「15秒TVCM犯人説」☺️と並んで、氏が大きな問題として取り上げていた点を紹介したいと思います。

それは日本企業の組織としての特徴です。

以下、少し長くなりますが、「広告の迷走」から要約引用します。

目先のことしか考えない広告
何回もいうが、この国の広告は目先のことしか考えない。頭の中には「販売戦略」との緊密な連動だけ。ことに新発売商品のキャンペーンづくりの現場では、広告を「経営戦略の一環」としてとらえるという発想はまったく無い。

ひとつには企業の委託を受けている広告会社の責任である。広告会社のプロたちは、短期間に目に見える成果を出さなければライバルに出し抜かれてしまうという潜在意識に突き動かされているから、近視眼的にしか広告を考えない。

世界には、長期的な経営戦略と連動したユニークな広告で成功を収めている企業がいくつもある。その面で日本企業の遅れが目につく。

それらの世界のエクセレント・カンパニーには共通点がある。
ひとつは、広告を重要視していること。
もうひとつは、大企業であっても企業のトップマネジメントが全ての広告を自らコントロールしているということ。
ボトム・アップのデシジョン・メーキングを当然のこととする我が国では、トップマネジメントが広告に関与することは考えられないことである。
けれども日本の広告の迷走は、じつは広告のコンテンツを決定する権限をトップがミドル・マネジメントに移譲したときからはじまった。
その時から、広告は長期を先取りする透視力を失ったのだ。

トップマネジメントが広告を重要な経営マターとして考えてい、自ら関与するというのは、西欧系外資系企業の広告を長くやっていた自分の経験から言って、本当です。

本当ですが、グローバル企業の本社のトップマネジメントが世界の数十ヵ国以上の国の広告を、梶さんの言うように「全て自らコントロールする」のは不可能です。

正確にいうと、トップマネジメントは広告の「てにをは」の細部に関与するのではなくて、商品・サービスの「上位概念」、つまりブランディングを決め、その敷衍がブレないようにコントロールするんです。その意味で、西欧グローバル企業の重要視しているのは、一つ一つの広告ではなく、不変的なブランディングです。

世界最大のグローバル食品企業ネスレの本社CEOを1980年から17年間務め、在任中に売り上げを3倍近くに増やした伝説的な経営者ヘルムート・マウハー*1の言を、ネスレを良く知る百瀬伸夫元電通副社長*2が著書「優れたグローバル企業の経営者に学ぶ・人を大切に育てる経営」で紹介しています。

それぞれの国のネスレ法人の社長に全権を持たせている。
私は現地法人の業績を上げるために、現地の消費者のニーズに沿った商品を開発製造し、現地の文化を理解し、現地の人の心をつかむ広告を中長期の視点で考えることが大切だと考えている。
その意味でネスレにおいて『広告は社長の仕事である』と考え、これを徹底させる努力をしている。

マウハー氏の言を少し解説すると、現地広告をつくるのは現地法人の社長の仕事として全権を委任するが、それがネスレ本社が「グローバル・ブランド」とする商品であるならば、本社の定めるブランディング・ポリシーに沿うことが求められているんです。
まさにTHINK GLOBALLY, ACT LOCALLYですね。

グローバル・ブランドって例えば、日本人がよく知っているブランドではNescafé、Kit Kat、MAGGI、MILOがそうです。それぞれにBrand Guidelineがあります。

ネスレには2000を超えるブランドがあり、売上が1,000億円を超えるブランドも30近くあるそうです。

さて「広告のコンテンツを決定する権限をトップがミドル・マネジメントに委譲したときから日本の広告の迷走が始まった」と指摘した梶さんは手を緩めないんです。😭

現実に広告のハンドルを握る宣伝部長氏は「長期的な視点は意識して将来のことも考えて広告を決めている」と仰るかもしれないが、社内人事異動で2、3年で交替する宣伝部長が言う「将来」とは何年先のことなのか。3年、5年?それではあまりにも近未来。

舌鋒鋭い梶さんの言を紹介していたら、なんか頭が痛くなってきました。本稿はこの辺で・・・☺️

日本企業に特徴的なこの組織的問題についての梶さんの持論は、次の稿に続けたいと思います。

*1:1927〜2018。 ネスレの名誉会長。ドイツ・アイゼンハーツ生まれ。

*2:1933〜2020。電通で営業幹部を務めたのちに海外事業を牽引した。

其の50 ブランドを語った偉人たち〜梶 祐輔 ⑤〜

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SONYWalkman TVCMより(1987)

 

なかには素晴らしい15秒スポットもあるのだ

 

 ここまで、ぼくは日本のテレビコマーシャル、なかでも15秒スポットに対して、悪口雑言の限りを書きつらねてきたのだが、もちろん、この国には、鮮烈で、感動的で、一度見るといつまでもアトを曳く、すばらしい15秒スポットCMも、数はそう多くはないけれど存在する。そのことを書いておかなければ、ぼくは、ものを知らないやつ、といわれてしまうだろう。

 

 1995年1月17日早朝、阪神淡路大震災がおこった。いちめん瓦礫の山と化した神戸の街に、被災地をとりまく関西の各地に、ひとつのCMが流れた。それは被災した人びとや、それを支援するボランティアや、被災地からのあ、あまりにも悲惨な情報に動転したふつうの人たちに勇気を与えた。

 

 

 

  梶祐輔氏は著書「広告の迷走」で、公共広告機構阪神淡路大地震後に緊急に作成した一本のテレビCMをこのように紹介しています。

 そのCMがこれ。

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  これはCM制作チームが被災地を実際に歩いて回って、実際にぶつかったシーンを素材に取り上げたものなんです。

  梶さんが批判してやまないタレントCMと対極にある、「水自由に使ってください」という文字が書いてある張り紙と、おばちゃんの声(おじちゃん?)だけがタレントの役割。タレントどころか、人間の姿も一度も映し出されていない。

 

  「しかしこのCMは、何と人間の温かさに満ちていることであろう。たくさんの視聴者のハートをとらえただけでなく、たぶん非常にたくさんの人たちを善意の救援活動に駆り出したであろうと思われるCMだった。」と梶さんは絶賛しています。

 

  データはないんですが、実際に救援活動をおこなう街のひとや、近隣からのボランティアの動員効果があったのではないか、と思うんです。できることは何かないか、と気持ちが動きますよね、このCM観てると。

 

  CMはシリーズで、こんなのもありました。構成は同じ。張り紙と人の声だけ。

youtu.be

 

 

  阪神淡路大震災の時の「水自由に使ってください」CMは、実は以前紹介したキンチョーのCMを数多く作った「面白CM制作梁山泊」、大阪電通の人呼んで「堀井チーム」の手によるものなんです。人の気持ちを揺さぶり感動させる真面目なCMも作れるんですよ。😂

 

  「震災支援・井戸水」編という、このTVCMは後にACC全日本CMフェスティバルのグランプリを受賞しました。

 

 

   この「井戸水」編に続いて梶さんが紹介しているのがSONY ウォークマンの猿が主人公のTV SPOTです。

  まずはそのCMをご紹介します。

 

 

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  1987年のTVCMです。

梶さんのこのCMの讃えっぷりを要約引用します。

 

  ソニーウォークマンの「猿」。このCMは、湖のほとり、ウォークマンを聴きながらじっと立ちつくしている一匹の猿の映像が素晴らしく美しい・・・

ナレーションがいう。

音は進化した。

ひとはどうですか。

新世代、ウォークマン誕生

 

  このCMはおしゃべりではない。

商品についてはほとんど何も語られていないが、どんな饒舌にもまして、伝わってくるものが多いのである・・・

 

  猿のチョロ松以外に、有名タレントが登場することもない。それでいて、このCMは大ヒットし、新世代ウォークマンは、対前年比150%の伸びを示したといわれている。

 

  ではあるけれど、これを「商品プロモーションのコマーシャル」と見る人はいないだろう。

 

  これは商品の売り上げを伸ばしたけれど、それ以上に商品の「価値」を高めたコマーシャルとして評価するのが正しい。

 

  これこそロイヤリティの高い消費者の心にも確実に届く、香り高い「アドバタイジング」であると、ぼくは考えているのだ。

 

 

  このTVCMが放映された1987年というのは、まさに日本がバブル景気に浮かれていた時代です。地価が以上高騰し(この年に銀座で1坪1億円を突破しました。)「財テクブーム」という言葉が流行り、某生命保険会社が財テクの一環でゴッホの「ひまわり」を53億円で落札して世を驚かせました。

 

  少し後、バブル崩壊の直前にはこの時代の極め付け、総括のようなスタミナドリンクのTVCMが世に流れました。今これを見るとかなりブラックな感じがしますが、当時の空気感が伝わってきます。

youtu.be

 

  このバブルの最中にSONYが放映した新WalkmanのTVCMは、静謐なトーン&マナーで逆に極めて異色で目立っていたという記憶があります。

 

  タレントは使っていない、余計な売り込み文句も言っていない・・・と梶さんが絶賛したCMです。

 

  実際にCMに出ている猿は「チョロ松」という、周防猿まわしの会に所属していた、まぁいわばお猿さんタレントなんですが、CMでは一猿☺️として出ているんで、タレントCMではありませんね。

 

  引用文にあるアンダーラインしたコメントが梶さんの考えを伝えてくれています。

これこそロイヤリティの高い消費者の心にも確実に届く、香り高い「アドバタイジング」であると、ぼくは考えているのだ。

 

   「アドバタイジング」を「ブランディング」と置き換えると、一気に梶さんの言わんとしていたことが見えてきます。

 

  人を共感させて、好きになってもらうこと、動かすこと、これがブランディングなんだ、と梶さんは言っているのです。(・・・のはずです。ご逝去されていますので確かめようがありませんが。)

 

  書いていていま気がつきました。梶さんの名著「広告の迷走」の表紙、裏表紙ともにビジュアルは猿でしたが、これは梶さんの無意識下にこのSONYの猿のCMがあったのではないでしょうか。

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  自ら紡ぎ出し続ける空虚な言葉の海に、自縄自縛され溺れている広告人を、その迷走を、冷たく静かに見つめている猿・・・山ほどの苦言をタイトル「広告の迷走」と、このビジュアルひとつで語らせている・・・クリエイター梶さんの見事なブランディングです。

 

  ちなみに梶さんが推したこのSONYの猿のCMは、実は同著中でやはり氏が見事な「アドバタイジング」と高評価したサントリーのトリスウィスキーのCM(雨と子犬)を作った仲畑貴志さんの作品なんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

其の49 ブランディングを語った偉人たち~梶 祐輔 ④~

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前稿で、日本の広告をダメにしたのは制約のある15秒TVCMという形態と、
其の短い秒数でインパクトを最大限にする為にほとんどのTVCMがタレント依存型の
ものになってしまった、とする氏の批判を紹介しました。

タレントCM*1の何が悪いと氏は言っているのか。

最大の問題点として氏が指摘するのは、商品ではなくタレントが中心になってしまう事。
そして、タレント契約が終了すると、往々にしてタレント効果で商品を買っていた消費者がタレントとともに去ってしまう、と氏は力説しています。

以下要約引用します。

大物タレントを起用したコマーシャルでは、商品に関わる情報が必要以上に二の次になり片隅に押しやられてしまう傾向が強い。

有名タレントのなかにはイメージの固定化を恐れて同一スポンサーと長期間契約をする
事を好まない輩(原文ママ(・・;))も多い。広告主の側にもタレントは使い捨て(原文ママ😭)
という意識が強い。人気が落ちればたちまち切ってしまう。(アイドルタレントを次々と変える)
「タレント・サーフィン」を繰り返している企業はいったい何を考えているのだろう。

・・・それでもタレントCMが減らないのは、それで商品が売れることがあるからである。
タレントの力であることは認めなければならない。しかし、視聴者が購買を決めるモチベーションは「あのタレントが出ていたCMの、あの商品が欲しい」ということに
尽きるのである。

其の時視聴者は、商品の効用・利便・特長を理解しているわけではない。商品名、
会社の名前すら覚えてないことがある。それでも「あのタレントの、あの商品」は
売れることがある。そういう意味では、タレントは頼りになるセールスパワーである
といえよう。だが、そういう売れ方を、僕らはほんとうに歓迎すべきなのか。

歓迎すべきかどうかは置いておいて、企業の立場で言えば、タレントが頼りになる
セールスパワーになるのであれば、とても有力な選択肢の一つなんです。

梶さんの辛辣な指摘はもっともであります。でも、スーパー、コンビニで売られる消費財の例で言うならば、実際に市場には競合商品があふれてい、流通は分かりやすい商品支援プロモーションを品揃えに加える条件として求めてくる。そんな状況下、短期間でオフテイクを上げなければ、ひと月で棚落ちです。コンビニに至っては、本部で全国の週販をオンラインで管理追跡していますから、
売上がたたない新製品は数週間のイノチなんです。

背に腹は変えられない、ってことなんですね。😂 
中長期視点では、ブランディングをしていかないと長生きするブランドはつくれない。その通り!
でも、長生きを考えるまえに、今日明日、来週、今月を生き抜かないと、長生きする前に死んじゃうんです。ほとんどの企業は、今を生き抜くことに全集中なんですよね、実際は。

ここはアタマが痛いところです。中長期の視点が大事なのはよく分かる。でも明日を生き抜かないと、未来がない。

某食品外資系企業のフランス人男性マネジメントが昔私に繰り返し言いました。
「有名タレント(彼らはcelebrity と言ってました) を広告に使うのは二つの大きなリスクが伴う事を十分承知しておく必要がある。ひとつは、タレントの人気のボラティリティ(上昇下落)やスキャンダルが商品の売り上げに影響を与えること、そしてそれは我々のコントロールできるものではない事。
そして、もう一つ。Vampire Effectだ。」

Vampire Effect・・・直訳すると吸血鬼。。。
なんかマーケティングの話にそぐわない怖い感じですね。

要するに、こういうことなんです。

有名タレントは、吸血鬼が血を吸うように、消費者の注目という栄養分を自分に引きつけてしまう。
商品にではなく・・・

当時、広告会社で缶コーヒーのマーケティングを担当していて、常に人気ランキング上位にいるタレントさんをCMで使っていたので、マネジメント氏から折りに触れて、そのVampire Effectの話を忠告として聞いていたんです。氏はブランディングの信奉者でしたから、この辺りは嫌ってほどご指導を受けました。(当時はホントに嫌になりましたけど。😂) それもあって、その缶コーヒーのCMはいわゆるタレントCMの皮を被ったブランディングCMに設計しました。その話はまたいずれしたいと思います。

次稿では、「15秒TVCM犯人説😂」を唱えた梶さんが認めた2本の15秒TVCMについて書きます。

*1:タレントの持つ個性、インパクトに主に頼っていることを表現する言葉としてよく使われています

其の48 ブランディングを語った偉人たち〜梶 祐輔 ③〜

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広告の迷走 梶 祐輔 著(宣伝会議 2004年発売)
<梶 祐輔 氏は「広告の迷走」の原因を作ったのは、極めて日本的な15秒TVコマーシャルという
広告表現形式であったと断言しています。

梶氏の辛口批評を要約引用します。

テレビコマーシャルは広告主数社が、或る番組を買切り、その中にCMを入れるのがオーソドックスな方法。

それ以外に番組から番組の間の空き時間帯を利用して放送される時間帯を利用するスポットCMという方法がある。

このスポットCMは15秒が主流*1である。

15秒という時間はあまりに短い。この時間に起承転結を展開できるわけがない。

この極端に短い時間を克服し、必ずヒットする発想が必要となった。

スポットCMは一本だけ放映してもインパクトが薄い。一週間に何十本、何百本と大量にオンエアする「集中スポット」という打ち方が出来て、ヒットの法則となった。

何百回という反復視聴に耐えられる表現が求められることになる。

発想を萎縮させる短時間という制約を受けて、この国のテレビコマーシャルは世界でも例のない独自の発展をすることになる・・・

 高度成長を邁進する「ものづくり」日本では、企業の開発力が進化して製品の品質に大きな差がなくなり差別化が難しくなってきました。

 大量に市場投入される数多の新製品を、短期間に短い尺のTVCMを大量投下する即効性のあるマーケティング
必要となりました。

 製品に優位性のある大きな差(小さな差を見出して、それに意味を深化拡大していくというやり口は日本では無視されました。このことについては改めて深掘ります) はないと知っている企業は、TVCMが短期間で視聴者の記憶に残る「ヒット」することを求めたんですね。

 その為に企業と広告代理店はタッグを組んで必勝法 (それで必勝だったか、極めて疑問ですが)を編み出しました。それは有名タレントをCMに起用することです。

 その辺りを氏は以下のようにバッサリと断じています。

ヒットを狙う為に、日本のCMは有名タレントを使うことに「逃げた」。

99%が有名タレントを使ったTVCMだそうだが、その理由はいくつもあげられる。
1) 日本人の無類の有名タレント好き・・・CMの洪水にうんざりしている視聴者への拒否反応を減じるドアオープナー機能
2) 「商品に差はない。だから広告で差をつけよう。」方式でのタレントというレッテル効果
3) 友達や家族の中での話題喚起という話題増殖性 (バズりやすいということですね、いま的に言うと)
4) 流通チャネルに対しての営業サポート
5) 社内での意見をまとめやすくする
・・・
もういいだろう。とにかく有名タレントを使ったCMは良いことづくめ、だから広告代理店はタレントCMを売り込んで
きたのだし、広告主は当然のこととして受け入れてきた・・・

日本のコマーシャルに詳しい外国人クリエイターの友人は我が国のTVCMの構造を「タレント、そしてトツゼン、ショウヒン」
と言って冷やかす・・・
タレントCMは、この国の広告主にとって、ほんとうに利益になっただろうか。それは日本の広告に何かを与えただろうか。


 さて、梶氏の叱責文から少し離れて、氏から諸悪の根源呼ばわりされていた15秒TVCMについて少し深掘りたいと思います。

 海外生活をしたことのある人ならわかるはずだけど、TVCMというのは30秒が普通なんです。


 日本だって、TV番組の提供スポンサーが打つTVCMは30秒なんです。これを「業界」はタイムと呼びます。

 一方で15秒TVCMはスポットと呼ばれます。Spotという英語は点、斑点、少量を意味します。

 番組の放送の形式は、キー局と呼ばれるメインとなる放送局 (通常は東京局ですが)が制作したものを全国の系列地方局に配信して放映します。番組内のスポンサーCMはこの系列地方局に同時に一気通貫で放映されます。

 例えば、TBSの場合、全国にJNNネットワークと呼ばれる系列28社があります。TBSがオンエアしたスポンサーCMをHBC北海道放送でも福岡のRKB毎日放送でも同時に放映しています。

そしてスポットCMは基本的にステーションブレイクと呼ばれる番組と番組の間の時間に放映されるものなんです*2

 ステーションブレイク(業界ではステブレと呼びます)、この時間は切り替えのタイミングであり、地方局独自編集の番組はこのステブレを挟んで放映されます。したがって、このステブレで放映されるスポットCMは地方局毎に放映する性質のものなんです。

 番組内CMではないので、本数も時期もavailableであれば自在に調整ができます。TBSにしてもステブレで放映するスポットCMは東京単、東京ローカルです。

 そういうわけで、15秒TVCMは短期決戦のプロモーション効果を狙うには好都合なんです。

 テレビ番組の提供スポンサーは最低でも、業界用語で言う「ワンクール」、3か月をコミットする事が条件です。

 企業の新製品導入キャンペーンのTVCMは、一週間から三週間程度のものが多く、「集中スポット」を投下しますので、必要に応じて地方局のステブレのスポットの購買を積み上げていくのです。

 多額の予算を投下して、短期的に成果を上げる事を必要としているわけですから、企業側としては15秒に詰め込めるだけのメッセージを詰め込みます。それが人情です。社情というべきですかね。☺️わかります。

 広告製作側の本音は「そんなに詰め込んでも、覚えてもらえませんよ。」なんですけど、広告代理店は企業の意思を忖度することマックスですから、そんなことははっきり言いません。

ご存命なら梶さんに大叱責をされそうですが、
それが実態です。

続きは次回に。

*1:スポット枠には30秒もありますが、本数は少なく、単価が高いので通常は15秒枠が売買されます。

*2:番組内に放送されるPTという枠もありますが、基本はSB、ステーションブレイクです

其の47 ブランドを語った偉人たち〜梶 祐輔 ②〜

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「広告の迷走」梶 祐輔 著 (宣伝会議 2004年発売)
<共有価値の創造・・・このことが「広告」*1の真髄だと直感していた梶さんは、商品名を連呼する、たった15秒のTVCMにメッセージを詰め込む当時の状況に嘆き、憤怒を著書に認めました。それは次回に...というところで前稿は終えました。

本稿はその梶さんの「憤怒」に接近したいと思います。名著「広告の迷走」での氏の辛辣っぷり、凄いんです。

最前線にいた広告人の現役時代を振り返ると、耳が痛いです。ちぎれて大出血です。😂

梶さんの生声、生筆?をぜひご紹介したいので、要約しますが引用が長くなることご容赦ください。

第一章 「商品を売るのが広告」という偏見と誤解
「広告とは何か?」という問いかけに、広告に専門家や関係者は、おそらく100人が100人「商品を売るためのコミュニケーション活動」と答えるはず。

広告主は僕たちに「商品が売れる広告を作ってくださいよ」と念を押す。その前提には「広告は商品を売るためにある」という固定観念がある。

それがこに国の、広告に関する憲法であった。

突飛なことを言うようだが、その憲法が間違いだったら、どうなるのか。

広告は英語で言うと、アドバタイジングとプロモーションの双方を含有している。
この両者の「国境線」は日本では実はあいまいに放置されてきた。

普通の会社の場合、マス媒体の購入をするので、アドバタイジングはプロモーションよりはるかに大きなお金が動く。

したがって本来プロモーションの役割であった「商品を売ること」がアドバタイジングの責任として重くのしかかってくることになった。

ぼくは「広告 (アドバタイジング) とはなにか?」と問いたい。

広告は商品を売らない。広告は消費者やステークホルダーとの「信頼関係をつくるもの」なのである。一歩進めて言えば、広告は「長期にわたって商品が売れ続けるために、絶対不可欠な信頼関係をつくるもの」だ。


としたうえで、氏は両者の役割を以下のように箇条書きしています。

アドバタイジング
長期にわたって商品が売れ続けるために絶対不可欠な信頼関係をつくるコミュニケーション活動
目的: マインド・シェアを高めること、ブランドを維持することなど
期間: 長期間 (何年間にもわたって継続展開される)
所管: 社長室、経営企画室
アドバタイジング費用の性格: 経営コスト、投資

プロモーション
目先の商品を売り切るための各種の販売促進活動
目的: マーケット・シェアを高めること、販売目標を達成すること、など。
期間: 短期的 (販売目標達成のために期間限定で展開される)
所轄: 営業または販売部門
プロモーション費用の性格: 営業経費


こう語り、氏は広告の役割を「いい土をつくる」ことと、農業に例えています。

プロモーションは化学肥料。化学肥料はたしかに即効性があり植物の成長を助けるが、土地は確実に痩せていく。やがては収穫量が落ちる。じっくりと長期にかけて自然肥料で育てること(アドバタイジング)と化学肥料(プロモーション)を並走させる必要があるのだと言っています。

さぁ、ここから始まりますよ、氏の辛辣トーク

しかし、この国の広告の世界は、いい土をつくることを軽視してきた。

新製品を次々と連発投入するこの国のメーカーのことを、市川和彦( P&Gに在籍したブランド・マーケター) はそれを「多産多死型のマーケティング」と名付けている。

世界の基準からみて我が国の商品のライフサイクルは極端に短く、新製品も半年か一年の寿命と考えられている。

だからこの国ではもっぱら半年で完結するキャンペーン、三ヶ月か半年でペイする広告が発達した・・・広告は目先の「商品を売る」ことのみに狂奔してきた。

そのことの愚を広告関係者も、学者も、専門家も誰一人として考えなかった。

広告制作者たちは、おかげで商品がよく売れたよ、という言葉を最高の褒め言葉と受け取るようになった。

「商品が売れた」という刹那的達成感、これが長期的思考をスポイルする習慣性の強い麻薬のような曲者だった。この国の広告は、こうして5年先、10年先を視野に入れる姿勢を失っていった。


氏の辛辣極まりない指摘を書いているうちに、自分が責められているような思いで、気持ちが萎えてきました。以降は次稿に譲ります。なにか精のつくものでも食べて、再びリングに戻ります⋯

*1:梶さんの言う”広告”は”ブランディング”のことであったと確信します。

其の46 ブランドを語った偉人たち~梶 祐輔 ①~

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広告の迷走 梶 祐輔 著 (宣伝会議 2004発売)

  僕は広告は、その会社がどういう「熱い思い」をこめて会社をやっているのか、どういう「熱い想い」をこめて商品を作っているのかを、本心で語るべきだと思っている。

 
 「熱い想い」は、イメージではない。それは企業の経営哲学、モノづくりの哲学なのだ。

  
  その「熱い想い」は、あくまで一方的に企業サイドのものであるけれど、それを採るか否かの判断は消費者自身が下すだろう。
  
  
  
  いまの消費者は、自分の価値観で共感できる主張とそうでないものを選び分ける。

  
  
  やや図式的に言えば、「熱い想い」はお客の心の中に入って、お客の心と共振しながら、つながるのである。

  


  今回はいきなり引用から入りましたが、この文章は、1959年の日本デザインセンター*1の設立に参加したコピーライター、クリエイティブディレクターの梶 祐輔氏が著者「広告の迷走」に書いた一文です。

  以前のエッセイでも紹介しましたが、この本は私のバイブル的な本の一冊でして、折に触れて読み返すブランディングのコンパスとなる名著なんです。この一文にはブランディングのエッセンスが含蓄されています。氏がこの本を上梓した2001年は、ブランド論的なものが語られ始めた、ブランド論創世期です。

  氏が記した「熱い想い」という言葉をブランディングという言葉に置き換えてみます。

  

  僕は広告は、その会社がどういう「ブランディング」をこめて商品をつくっているのかを、本心で語るべきだと思っている。
ブランディング」はイメージではない。それは企業の経営哲学、モノづくりの哲学なのだ。

  その「ブランディング」は、あくまでも一方的に企業サイドのものであるけれど、それを採るか否かの判断は消費者自身が下すだろう。
いまの消費者は、自分の価値観で共感できる主張とそうでないものを選び分ける。

  やや図式的に言えば、「ブランディング」はお客に心の中に入って、お客の心と共振しながら、つながるのである。


  

  どうでしょう? 現代語られているブランディングの要点を氏は見事に言い当てています。


  2001年当時、ブランディングはブランドの持つ資産価値、つまりbrand assetの観点から語られることがほとんどでした。

  
  アメリカの4A agencyの象徴的な大手広告代理店であるヤング・アンド・ルビカムが開発したBrand Asset Valuatorが持て囃されたのもこの頃です。
  
  
  ブランディングが、消費者の購入を持続的なものにするマーケティングの視点を飛び越えて、資産価値つまり企業の財務的な視点になってしまったのは残念なことでした。

  特にこういう視点で考えてしまう傾向は日本で強くなってしまったように思います。だからこそ、日本ではブランディングは企業ブランドの観点で語られることが多いのでしょう。

  欧米では商品・サービスのブランディングと企業ブランディングはすべからく一致しています。

  前項でご紹介した藤岡和賀夫さん、今回ご紹介している梶祐輔さん。おふたりに共通しているのは、企業側の都合でひとの気持ちは動かせない、ひとの共感を得ることが何より大事なのである、と語っていることです。

  ブランディング、ブランドの効果を意識していたというわけでは全くないと思いますが、期せずして氏たちの目指したものがブランディングそのものであったと思います。

  最近、特に欧米ではネスレなどのグローバル企業が掲げているCSV経営 (Creating Shared Value)の根っこはこの「共感を得ること」に繋がります。小難しくなっちゃうんですが、CSVは「共有価値の創造」ってことです。共有価値って、平たくいえば「価値観同じだよねぇ、僕らは」ってことです。ブランディングの基礎です。

  梶さんは同書でこんなことも言ってます。

 

企業は自分たちの考えることに、心から深く同意してくれる消費者だけを大事にすればいいのだ。

  
  企業の口からは決してこんなこと言えませんよね。☺️
  でも、これ企業側の本音ですよね。

  
  ちなみにマーケティングの泰斗、コトラー*2は著書”コトラーマーケティング3.0”*3マーケティングは消費者志向のマーケティング2.0から価値主導のマーケティング3.0に向かっていく...としてこんな主張をしています。

 

  マーケティング3.0では...消費者は混乱に満ちた世界において、自分たちの一番深いところにある欲求、社会的・経済的・環境的公正さに対する欲求に、ミッションやビジョンや価値で対応しようとしている企業を探している。選択する製品やサービスに、機能的・感情的充足でなく精神の充足を求めている。

  
  これってまさにShared Valueの考え方ですよね。
  
  価値観は人によって違います。誰とも等しく「共有価値の創造」は出来ません。

  共有価値の創造・・・このことが「広告」*4の真髄だと直感していた梶さんは、商品名を連呼する、たった15秒のTVCMにメッセージを詰め込む当時の状況に嘆き、憤怒を著書に認めました。それは次回に。
  

*1:1956年東京オリンピックのメインビジュアルを制作した亀倉雄策を始め多くの傑出したデザイナーやディレクターが在籍した広告制作会社。

*2:近代マーケティングの第一人者と認められるアメリカの経営学者。

*3:2010年 朝日新聞出版

*4:梶さんの言う”広告”は”ブランディング”のことであったと確信します。

其の45 ブランドを語った偉人たち 〜藤岡和賀夫 ③〜

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「私には夢がある 2016年東京が変わる」*1という本があります。藤岡和賀夫さんが2009年に上梓した本です。これって、言ってみるならオリンピック誘致を機に東京のリブランディングをという提案だったんです。

 

2016年東京オリンピック誘致を当時の石原都知事がリーダーシップを取って行い、2009年というのはまさにIOCが開催地を決定する年でした。この本が出版されたのは2009年10月30日。ご存知の通り2016年オリンピックの開催地は結局ブラジルのリオデジャネイロになりましたが、皮肉なことにIOC総会がこれを決定したのは2009年の10月2日だったんです。本が店頭に並んだそのときには東京敗退がニュースになっていたんですね。

 

 

首都機能分散論というのがあって、これは戦後東京が焼け野原になったのを機に、東京に集中する立法、行政、司法機能を東京圏外に移転しようという構想でした。1960年当時議論を牽引していた河野一郎*2建設大臣が急死して、移転論は霧散してしまいました。

 

そして時代ははるかに下って1980年代、バブル景気で東京の地下が急騰したことで首都機能移転論が再浮上、1990年には衆参両院で首都機能移転を検討する基本方針が決まりました。

首都機能移転論は、その後折に触れて必要が叫ばれ、浮上しては霧散を繰り返します。

1995年のサリン事件や阪神淡路大震災で、テロや自然災害への人口集中都市の脆弱さが認識されて、分散移転論が白熱しました。2011年に起きた東日本大震災は、東京都内でも帰宅困難者を発生させ、東京に直下型地震が来たらどうなるのかと、いよいよ分散移転は不可避の事と盛んに語られました。

 

災害大国日本、この首都機能分散論の考えはとてもリスクヘッジの意味で合理的と思います。

 

しかしながら。

永田町界隈の議論はどこふく風、ご存知の通り経済活動の実際は真逆で、むしろ首都集中、東京一極集中が止まりません。

 

既に網の目のように東京の地下を走る既存の地下鉄のさらに下の大深度を掘り抜いて大江戸線が開通したのが、まさに21世紀初年度の2000年末。

丸の内再開発で2003年に三菱地所が建てた丸の内ビル。

IT景気の象徴と言える六本木ヒルズが竣工したのが、2003年。

2006年の表参道ヒルズ

 

六本木の旧防衛庁跡地に2007年に建った東京ミッドタウン

同じく2007年には三菱グループの丸の内再開発の象徴となる新丸の内ビル。

虎ノ門〜新橋を結ぶ旧通称マッカーサー道路の完成と歩を合わせるように2014年に竣工した虎ノ門ヒルズ

渋谷再開発のモニュメント渋谷スクランブルスクエアは2019年・・・

 

どうしちゃったんだジャパン! 首都機能地方分散論はどこに吹き飛んだんだ?

地方の時代、と政治家もマスコミも口を揃えて移転だ分散だと言ってたのはどうしたんだろう。

 

地方論は、結局ゆるキャラふるさと納税というその場しのぎで、本質的な話はぶっ飛びのまま。。。

 

言葉は悪いけど、結局工事やってナンボの土建国家じゃないですかこの国。ソフトが経済的にも、国民生活的にも…と藤岡さんが思ったかどうかは知りません。多分思ったんじゃないかな。

 

氏は1970年の3月に始まった大阪万博でパビリオンのプロデュースも手掛けましたが、同じ時期に富士ゼロックスの「モーレツからビューティフルへ」をやっています。国の隆盛をうたった万博で、「これはちょっと違うな」と自問自答していたのだと思います。

 

「ビューティフル」への後に氏はJR (旧国鉄)に「ディスカバー」の提言をします。

 

万博期間中の輸送力強化に多額の投資をし、実際にひとの移動を担った国鉄の課題は、ポスト万博の柱を作ることでした。依頼を受けた藤岡さんは以下のように考えたそうです。(現代軍師学心得より抄録)

 

万博が終われば、それに変わるイベントはないか、つまりお決まりの「新製品発売」という手ですね、こういう既存手段は私は嫌だったんで、「旅の意味」を徹底的に追及しました。そこで行き着いたのが、「旅は自分自身の発見だ」というコンセプトです。ディスカバー・マイセルフ。

当時の物質的繁栄一辺倒に対するアンチテーゼになると確信がありましたし、旅をそう捉えると共感を得られるはずだと。ディスカバー・マイセルフじゃ分かりにくいので、ディスカバー・ジャパン〜美しい日本と私〜にしたんです。

 

これ、もう50年も前のことですよ。ずっと時代を下って「自分探し」と皆が言うようになりましたが、その原点ここにありですね。

 

「旅」をハード、つまり客車による物理的移動とか観光(これもある意味ハードです)のようなfunctional benefitとして捉えるんじゃなくて、その先の情緒的価値を生み出すものと捉える。これってブランディングそのものです。国鉄の提供価値を正確・安全・リーズナブルな価格という機能便益じゃなくて、「美しい日本と自分探し」という付加価値に高める、これは見事なリブランディングです。

 

話を冒頭の東京に戻します。

 

著書「私には夢がある...」は氏が2016年東京オリンピック開催の時には東京をこう変えられないかと、夢を語った一冊です。本を書いていた時期にはまだ東京は候補地の一つとして他都市と競っていたんですね。

 

ここに書かれていた内容、とにかくスケールが大きくて凄いです。

 

前書きにこうあります。

 

 

それは都心の首都高 (都心環状線) を撤去して、かつてあった水路・水辺を復活させるという案だ。1964年の東京オリンピック以来半世紀ぶりに東京の都心にきれいな空と環境を取り戻すという話だが、諦め切って無関心に堕ちていた住民にとっては驚喜のサプライズとなる…折りしも、東京は2016年のオリンピックを招致しようと大奮闘の真っ最中だ。そうなら、見事招致が決定した暁には首都高に最後の御奉公という花道を…

 

この本が出たばかりの2009年末にこの著書を読みましたが、余りの風呂敷の広げっぷりにとてもリアルな提案とは思えませんでした。

 

でも、この11年後の2020年、日本橋の上に架かる首都高を地下化することを国土交通省が事業許可し、今年2021年の5月から着工することになるんですね。都心環状線の呉服橋出入り口と江戸橋出入り口を封鎖して、区間日本橋川の川底下に首都高を通すことになります。

 

氏はこう提言しています。

かつて東京はヴェネツィアに負けない水の都であった。1964年東京オリンピックを機会に、首都高を都内に走らせ、多くの川を暗渠にしてしまった。2016年のオリンピック開催を機に、首都高都心環状線を撤廃し、水の都を復活したらどうか。都心環状線は他県から他県へ抜ける通過交通の車が過半数で、外郭環状線へ回ればいいだけの話。工事費で1兆円規模の景気刺激策にもなる。

 

たしかに。Tokyoを自然豊かな水の都にする・・・見事なTokyo Rebrandingです。

 

しかし、氏の思いとは逆に首都東京は益々高層化の再開発が進んでいるのは冒頭に書いた通り。三菱地所が手掛けた丸の内再開発の次は八重洲三井不動産が総力を上げて再開発中です。

 

2020年東京オリンピックもコロナ禍で一年延期となり、本稿執筆中の3月現在では無観客で実施の方向と取り沙汰されてい、藤岡氏が思い描いたかたちとは随分と違ったものになってしまいそうです。首都高都心環状線撤廃も、実現する形は日本橋の頭上を通る部分だけを地下道路化するということに。

 

草葉の陰から「Discover Tokyo!」とはっぱをかける氏の声が聞こえるような気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:マーティン・ルーサー・キング牧師が黒人差別の撤回を求める公民権運動で1963年に行った演説のタイトル「I have a dream」へのオマージュです。

*2:河野太郎衆議院議員の祖父