必ずブランディング通になれる3分で読めるエッセイ〜ブランドのチカラ

ブランディング・コンサルタントの経験譚。Barで若きマーケーターとスコッチ飲んで話す気分で。ブランディング & マーケティング・コミュニケーションのあれやこれやを分かりやすく、自分の言葉で。

其の66 広告の見巧者〜向井 敏 ①〜

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NHK時代の黒柳徹子さん

なにしろ、全く新しい広告媒体である。専門家などいるわけがなく、作り手はおしなべてアマチュア。暗中模索もいいところで…

 これは、facebook について書かれたものでしょうか? それともInstagram?
答えはTikTok・・・
でもなく。

 実はこの一文は著書「紋章だけの王国」で、向井 敏さんがTVCMについて語ったものです。

 広告を収入源とする電波媒体である民間放送が立ち上がったのは昭和28年、1953年です。

 TVCM、テレビコマーシャルの存在をそれまで誰も知らなかったわけですから、当然TVCMは「全く新しい広告媒体」です。ニューメディア。現在を生きている我々からすると想像がつかないような話ですが、そうなんですね。

 このニューメディアに試行錯誤で出稿されたTVCMを同時代に見聞きしていた向井 敏さん。私が取り上げたい「広告の見巧者」の一人目です。

 ビデオ・テープを使った録画放送が開始されたのが1958年です。つまりそれまでのコマーシャルは必然生放送、生コマが基本だった由。

 NHK放送初めての、つまりはTV放送「初めての女優」であった黒柳徹子さんも様々な場で、生放送ドラマの失敗譚を語っています。
テレビ放送は番組もCMも生が基本だったんですね。やり直しがきかない。大変だ。

 さてその生コマとはどんな具合だったのか、向井さんが同書で書いています。

松下電器の洗濯機のCMを例に引いてみよう。1953年に作られた最も初期のCMのひとつだが、円筒形の攪拌式洗濯機が、ロング、アップ、俯瞰とカメラアングルを変えながら終始画面を領し、それに女性アナウンサーの説明が入る。秒数は45秒。「ご家庭の労力をはぶくスピードお洗濯。ナショナル家庭用電器洗濯機は、一度にワイシャツ七枚分のお洗濯が、十五分にわずか三十銭の電気料で見違えるように美しくなります。お求めやすい分割払いのお取り扱いもしております。詳しいことは、ご覧のような看板をかかげたお近くの電器店でご相談ください。」この後、「電化による生活文化の向上へ」の字幕。

 三十銭! 
 今のひとは読めますかね、この漢字。サンジュッセンですよ、そこの若人。読める?大したもんです。

 一円未満の貨幣が発行停止、通用禁止になったのが1953年、まさに民放の開始年です。

 通貨としては使用できなくなりましたが、まだこの頃は計算単位として人々は「銭」に実感を覚えていたんですね。
 私が物心ついた頃は、既に銭単位の実感はなく、時々母親が銭のつく話をするのを訝しく聞いた記憶があります。

 話を戻します。向井さんはこの頃の松下洗濯機のようなTVCMを「動く商品カタログ」と表現しています。言い得て妙ですね。

 45秒という半端なCMの長さは、当時ステーションブレイクが45秒だったことが要因でしょう。
 現在のステーションブレイク枠、業界の人はステブレと言いますが、これは1分です。15秒TVCMが4本入ります。

当時生CMの製作にたずさわっていた人たちの記憶を総合すれば、その多くは一分ないしは二分の長尺で、アナウンサーが商品を手に持ち、あるいは傍に置いて、ときに使用方法を実演して見せたりしながら、商品カタログに記されているのとほとんど同じ文句を伝えるだけ、およそ単純平板なものだったという。

 このように向井さんは書いています。
ステーションブレイク枠は45秒でしたが、番組内CMは1、2分の生コマ枠が主流だったようです。

 今から見ると、とんでもない「動く商品カタログ」TVCMですが、それでも視聴者はこぞってCMに見入り、商品を買いました。

 先述の洗濯機と白黒テレビ、冷蔵庫が家電三種の神器と喧伝され、飛ぶように売れた時代の始まりです。

 我が家は東京の下町でしたが、家電三種の神器は物心ついた頃にはまだ無くて、母親は家の目の前にある井戸で洗濯板を使って洗濯してい、冷蔵庫も木製のもので氷屋さんに中を冷やす氷板を配達してもらっていたという遠い記憶があります。1964年の東京オリンピックは白黒テレビで観た覚えがあります。

 さて高度成長が始まりモノを作れば片っ端から捌けた時代。消費者が、まさに消費することを枯渇していたわけですから。それは売れますよね。

 現代と違って、とんでもない粗悪製品が世に溢れていて、婦人家庭誌の「暮らしの手帳」が徹底的な商品テストを行い検証結果をメーカーに忖度することなく誌上公表して部数を伸ばしました時代です。

 だからこそ、コミュニケーション上なんの工夫もない、製品カタログのようなTVCMでも、人々はこぞって注視したんでしょう。

 向井さんが「動く商品カタログ」と断じた初期の暗中模索時代からTVCMはどのように変わっていったのか…広告の見巧者、向井 敏の見立てを次回にご紹介したいと思います。

其の65 広告の見巧者

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  見巧者(みごうしゃ)という言葉があります。

  歌舞伎、能などの古典劇や芝居などの決まりごとや背景に精通しているひとを指します。

  多くのだしものを観て、知識を身につけていると、より深く芝居、劇を楽しめるという暗黙の了解が前提。

  誰もが等く、知識量の差があろうがなかろうが楽しめる種類のものだと、この表現は使わないですよね。

  例えば、なんでしょう、吉本新喜劇なんかには使わないでしょうね。「吉本新喜劇の見巧者」・・・これはピンとこない。柄本明ベンガル東京乾電池・・・これも違うな。久本雅美柴田理恵WAHAHA本舗・・・もっと違う!

  さて、話は広告についてです。結論から言いますと、私は広告には「見巧者」がいると思うんです。

  演劇にはざっくり言って側面が二つあると思うんですね。

  一つは演者の面。もう一つは観る側、観客の面。そして多くの劇を見続けてきた「見巧者」の観客が存在する。

  広告も、発信する側、つまり広告主と、観る側、視聴者=消費者の二つの面じゃないか!と言いたくなりますよね。
  
  そうなんですけど、視聴者=消費者は広告を商品・サービスのプロモーションをしているもの、つまり自分が広告商品を買いたいか、買いたくないか、関心がないか、でしか見ていないんですね。

  「この広告はうまいところを突いているよな、うん、すぐ買いたくなるよね、こんな風に表現されると・・・うまいなぁ、誰がプランナーなんだろ?」なんて観る側=消費者は決して思わないんです。当たり前ですよね。思うのは、買いたいか、買いたくないか、関心がないか・・・しかないんです、くどいようですけど。☺️

  発信する側、広告主ですね、彼らは広告の内容がどうであれ、知名度が上がり、売り上げが上がれば、もうそれが全てなんです。これも当たり前です。広告費を投下するのは、商品・サービスの売り上げを伸ばすことが唯一無二の目的なんですから。

  広告会社が広告制作にあたって、凝りすぎたり、制作費の掛かりすぎる予算度外視の計画を立てたりすると、広告主が決まって言うセリフがあります。「広告はアートじゃない!」。御意。当然です。

  そして広告主と同じ発信サイドではあるんですが、広告代理店や制作会社。彼らは広告が世に出たときには、これは終わったこととして、もう次の用件に取り掛かっていて、心はここにありません。

  もちろん、売り上げの推移は気にしていますよ。売り上げが予定通りに伸長していなければ、媒体出稿計画*1の見直し、変更、必要ならば広告の内容の手直しをする必要があります。

  でも、心は次のこと、次回キャンペーンへ移ってしまってるんです。現場にいた私が言っているんだから確かです。😀

  この広告主、広告代理店・制作会社、そして消費者の三大勢力*2😀以外に、少し距離が空きますが、広告を分析研究する学者と広告の批評家がいます。

  学者筋は実践家ではなく、むしろ批評家の方が実戦現場に近いというのが正直な私の見方なんです。

  さて本稿からシリーズで、この広告の批評家の偉人たち、私の考える「広告の見巧者」の貴重な意見をご紹介していきたいと思います。

  その見巧者たちとは、向井 敏*3、岡田芳郎*4天野祐吉*5の3名の方です。

  奇しくもご三方の生年は近いんですね。故向井氏は1930年、昭和5年で、故天野氏は1933年、昭和8年。三人のうち唯一ご存命の岡田氏は天野氏より一年後、1934年の昭和9年生まれです。

  日本でTVコマーシャルを収入源とする民間放送は1953年の日本テレビの開局から開始されました。

  三氏の共通点は、20代から30代の広告に関わる若きビジネスマンとして、当時「ニューメディア」だったテレビに放映されるTVコマーシャルという宣伝広告媒体の、誕生から隆盛を同時進行的に見聞き、体験しているということなんです。

  従って三氏の書かれた評論本には、初期の頃のTVCMのあれやこれやがリアルに描写されていて、貴重なものとなっています。当時を知る人は少なくなってきているのですから。

  ちなみにTV放送開始の時から女優として活躍されてきた黒柳徹子さん、女史の生まれは1933年です。故天野祐吉さんと同い年で、まさにテレビの隆盛とかぶって人生を歩まれてきたわけですね。

  さて、向井 敏さんから、ご紹介していきたいと思います。

  氏の名著「紋章だけの王国」は、繰り返し読みました。

  梶 祐輔さんは、日本の広告の迷走を嘆き、怒りの提言を行い続けた、炎の「批判者」でしたが、向井さんは広告を距離をとって注視した文字通り「批評家」でした。

  詳しくは次稿から。

*1:どのメディアにいつ、どれくらい広告をするのかを詳細に定めた予定表ですね

*2:広告効果測定会社や調査会社も数多存在しますが、関連業界として広告代理店側に含めます。

*3:1930〜2002。エッセイスト。1960〜1982 電通に在籍。クリエイティブでTVCM制作をおこなった。

*4:1934年〜   1956〜1998、電通に在籍。コーポレート・アイデンティティ室長などを務めた。

*5:1933〜2013。コラムニスト。博報堂に勤務後、雑誌「広告批評」を創刊。朝日新聞に名物コラムとなった「CM天気図」を寄稿し、多くのTV番組に出演し広告批評家という存在を世に知らしめた。

其の64 昭和の名ブランディング〜無責任男・植木等というブランディング〜

f:id:brandseven8:20210910033955j:plain 前回の水木しげるの妖怪ブランディングに引き続き、今回は植木等というブランディングについて・・・こいつアタマおかしいのか、とは言わずちょっと我慢して読んでみてください。☺️

  特定のブランド連想に導くキービジュアルだったり、キーサウンドなどのフック、これを調査会社ミルウォード・ブラウン南アフリカの会長エリック・デュ・プレシスが「ブランド・ソーマ」と名付けたと第20稿*1で詳しくご紹介しました。簡単にいうと脳内無意識下に出来たブランド価値への呼び水となる「記号」です。

  植木等は「無責任男」と呼ばれた、ある特殊なサラリーマン像というブランド・ソーマとして機能するキービジュアル(キーフィギュア)だったと思います。

  伝説のコミックバンド、クレイジーキャッツの略歴を簡単にご紹介させて下さい。

  植木等が所属したクレイジーキャッツ、正式には「ハナ肇クレイジーキャッツ」ですが、このグループは進駐軍*2の駐留キャンプ回りをする元々はキューバンキャッツというジャズ演奏をする音楽グループでした。

  演奏中にたまさか行ったギャグアクションが馬鹿受けし、バンドはコミックバンドの方向へシフトしていきます。

  自らもジャズミュージシャンだった渡辺晋率いる渡辺プロ所属。
 
  渡辺プロ躍進の原動力となるテレビ番組「おとなの漫画」や「シャボン玉ホリデー」といった伝説的な番組に出演して、この音楽のできる独特なコミックバンドの人気に火がついたのが,1960年代に入ったころです。

  まさに広告媒体としてのテレビが破竹の勢いで影響力を増していく昭和の時代です。
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  このキューバン・キャッツがハナ肇クレイジーキャッツというバンド名でスタートしたのは1956年、昭和31年 戦後10年が経過した年でした。「もはや戦後ではない」という有名なフレーズが経済白書に記された年です。

  渡辺プロの後輩コミックバンドのドリフターズが1970年代に「8時だよ全員集合」で人気に火がつき、先輩バンドと主役交代をすることになるまで、クレイジーキャッツは多くのバラエティ番組に出演、NHK紅白歌合戦の常連メンバーでもあり、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでした。

  テレビ番組は彼らのショーケースでしたが、一方で映画シリーズも数多くの作品が作られました。人気は1961年に出た「スーダラ節」という大ヒット曲で着火します。こんな歌詞なんです。

チョイと一杯のつもりで飲んで
いつの間にやら はしご酒
気がつきゃ ホームのベンチでゴロ寝
これじゃ身体に いいわきゃないよ
わかっちゃいるけど やめられねぇ
あ、ほれ スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ
スイーラ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ
スイスイ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ
スイーラ スーダララッタ
スラスラ スイスイスイ、っとくらぁ

  この歌詞は後に東京都知事となる青島幸男氏の手になるもので、モーレツサラリーマンへのアンチテーゼだったと思います。

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  右腕を体の前でゆらゆらと揺らし歌う、この独特の振り付けは大人気となり、子供はふざけて小学校で真似*3をし、大人は宴会で「チョイと一杯のつもりで飲んでぇ〜」と怪気炎を挙げていました。

  この歌詞に沿うかたちで1960年に映像化されたのが、大映映画「スーダラ節 わかっちゃいるけどやめられねぇ」でしたが、不作に終わりました。
  歌を地でいくサラリーマンの悲哀を描いたストーリーが大衆受けしなかったのが原因のようです。

  翌1962年、東宝映画配給に変えて出した「日本無責任時代」という映画が大ヒットして、その後のクレイジーキャッツ出演の映画量産体制の端緒となります。

  この映画の監督をした古澤憲吾と脚本を書いた東宝社員の田波靖男が作り上げた、「お調子者で無責任なサラリーマンが活躍する」というプロットが当たったわけです。

  シリアスさのかけらもない、明るくて、歌が自在に挿入されるミュージカル的要素もあったこの映画は、コメディバンドというクレイジーキャッツの特質がフルに活用されることになり、1962年夏の興行収入トップに躍り出ます。

  映画の大当たりで、お調子者サラリーマン映画はシリーズ化され、1971年まで10年間にわたり、11本が製作されます。

  このシリーズは植木等演ずる主人公が主役ですが、クレイジーキャッツのメンバー全員が一致団結し協力する「クレイジー作戦」シリーズも同じ期間に公開時期をずらして計14本が上演されます。これに時代劇仕立ての映画が4本あり、全部で30本近くの大シリーズです。年平均3本。

  1960年に当時の池田内閣が「所得倍増計画」を発表し、1961年からの10年間で国民総生産(GNP)を2倍にする計画が実行に移されました。高度成長時代の始まりです。
 
  お気づきでしょうか? 植木等クレイジーキャッツの快進撃はまさにこの10年期とピッタリ時期が重なっているんです。

  植木等の演じたお調子者サラリーマン、名前は平 均 (たいら ひとし)、この主人公はまさにこの時代の「モーレツサラリーマン」のアンチテーゼとして描かれています。 

  世のサラリーマンは会社の命令に言い諾々と従い、朝早くから世界に名だたる満員電車に押し込まれ、判で押したように一日中ハードワークをこなし、会社が終われば居酒屋でクダを巻いて家路に着く、毎日この繰り返し。
  
  主人公平 均 (たいら ひとし)は、名前とは逆にちっとも平均的なサラリーマンではなく、融通無碍、無責任に調子良く過ごして、然るに成功してしまう男として描かれています。

  この映画を観て日本のサラリーマンたちは、「責任」の重しで押しつぶされそうな自分の状況とは真逆な平 均(たいら ひとし)に「解放感」を感じて溜飲を下げていたのだと確信します。

  植木等が演じた無責任男のブランド価値はここにあったはずです。解放、releaseです。

  皮肉なことに、実際の植木等は父親が浄土真宗の寺の住職であったこともあるのか、「無責任男」とはかけ離れた生真面目な人物であったようです。

  実際に植木等はスーダラ節を歌うにあたって葛藤し、遂に父親にどうしたものかと相談をしたそうです。

  住職の父は逆に「この、わかっちゃいるけどやめられない、という下りは我が浄土真宗をつくった親鸞聖人の教えに通ずる真理である」と大賛成したいうエピソードは有名です。ホントかどうかわかりませんが。😀

  ご本人の気持ちはさておき、まさに植木等はこの「無責任男サラリーマン」、実在のサラリーマンたちに「解放感」を与えるソーマとしてブランディングされたわけです。

  ブランドは一度出来上がると、簡単には変わることがない、という利点があり、だからこそ多くの企業がブランディングに心血を注ぐわけです。しかし、逆の見方をすると、一度出来上がると簡単には変えられない、という不利点が同等にあるわけです。

  それが証拠に、植木等がシリアスな演技をする俳優として高い評価を得ることができたのは、1960年のスーダラ節から実に25年後の1985年に黒澤明監督の「乱」に助演した時のことでした。

*1:其の20「違いのわかる男」の何が違うのか?

*2:第二次世界大戦終了後、敗戦国日本をポツダム宣言に従い占領管理するために、進駐した連合国軍組織。連合国軍最高司令部。

*3:筆者も正月の親族の集まりでこれを披露し、両親から後で酷く怒られた記憶が鮮明にあります。

其の63 昭和の名ブランディング〜水木しげる〜

 ブランディングの話で水木しげる?と訝るひとが多いと思います。そうですよね。水木しげると言えば稀代の漫画家、妖怪をテーマにした独特の作風で知られた方です。

 氏の奥様の武良布枝さんの自伝的エッセイ「ゲゲゲの女房」、NHK連続テレビ小説にもなりましたが、この作品で氏の生い立ち、戦争従軍、漫画家としての活躍は広く知られるようになりましたが、ブランディングとはなんの関係もなさそうです。

 極めて私的な見方なんですが、今回は水木さんの成し遂げたあるブランディングの話をしたいと思います。

 それは、妖怪のブランディングなんです。

 氏は漫画でブランディングをしたなんてこれっぽちも思っていなかったでしょう。でもしたんです。したんだと確信します。

 皆さんは水木しげるの代表作って何を思い出しますか?
 そうですよね。ほとんどの方は「ゲゲゲの鬼太郎」を挙げると思います。

 でも、この「ゲゲゲの鬼太郎」って元々は違う漫画タイトルだったってご存知ですか?

 「墓場鬼太郎」というんです。貸本屋*1作家としての水木しげるのヒット漫画でしたが、少年マガジンでの連載開始やTVアニメ化にあたって、あまりおどろおどろしいタイトルはまずいというので、ゲゲゲの鬼太郎となりました。

 小さい頃に貸本屋は何回か行った記憶があります。上野のあたりだったか。お金を払って借りたのではなく立ち読みです。その時に墓場鬼太郎を見たような、うっすらとした記憶があります。

 先述のとおり、1967年から少年マガジンの連載になったり、TVアニメ化されることになり、流石に墓場の鬼太郎では子供相手には不気味過ぎるということで、ゲゲゲの鬼太郎に改名されたんですね。普通我々皆が知っている鬼太郎は、これ以降の鬼太郎です。登場人物(登場妖怪ですね、正確には😀)は目玉オヤジ、ねずみ男猫娘、塗り壁、一反木綿、砂かけババァ・・・ユニークで憎めないキャラクターです。

 ちょっと待ってください。ユニークで憎めないキャラクター・・・妖怪ってそもそも、おどろおどろしい、幽霊と並ぶ怖い異形の存在ですよね。

 そうなんです。ここがポイントなんです。
水木しげるの一連の漫画が、これらの妖怪を我々が楽しんでみるようにしてくれたんです。
  水木さんは妖怪を、ある意味楽しい存在にブランディングしたんだと確信します。

 目玉おやじ・・・「鬼太郎!」って甲高い声で呼びかける憎めない「目玉」ですよね。お茶碗の風呂に浸かったりして。

 でも私の小さい頃の貸本屋の記憶では目玉おやじ、当時はそんなネーミングされていたか定かではありませんが、つまり鬼太郎の父の「目玉」はおどろおどろしい存在だったんです。

 そもそも鬼太郎は地球に人間より前から存在していた「幽霊族」の最後の一人なんです。

 人間族に追われるようにして、人里離れた山奥の廃屋で密かに暮らしていた幽霊族の夫婦は、遂に不治の病となり、妊娠していた妻は死んでしまいます。
 
 顔が溶けてしまってついに父親も絶命しますが、最後に目玉が顔からぽとりと落ち・・・それが目玉オヤジの原型なんです。

 そして埋葬された死んだ母親の体内から生まれ出て、埋められた墓場から這いずり出てきた赤ん坊・・それが鬼太郎なんです。だから墓場鬼太郎

 どうでしょう。おどろおどろしいです。貸本屋時代の鬼太郎や目玉オヤジは異形の妖怪そのものだったんです。

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鬼太郎の父
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鬼太郎の母
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目玉おやじ」の誕生
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鬼太郎誕生


 これがゲゲゲの鬼太郎時代になると・・・
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 異形の妖怪を面白おかしく、親しめる存在として描いた水木しげる

 ブランド付加価値はDiversity, 多様性への憧憬だと考えます。時代は高度成長時代、モーレツが美徳とされ、一分の遅れも許されぬと満員電車に詰め込まれるひとびと…

 そんな時代に水木しげるの描いた妖怪は…

番組の唄に歌い込まれています。
♪朝は寝床でグーグーグー
楽しいな、楽しいな、
おばけにゃ学校も試験もなんにもない!

おばけにゃ会社も仕事もなんにもない! 

 憧れますよ。そんな生活。そんな生き方もあり、まさにDiversityです。妖怪になっても良いとは思いませんが。

 ちなみに、私は小さい頃より水木さんが描いた「ねずみ男」が大好きで、授業中にノートの隅に毎日のようにいたずら書きをしていたものです。何千回も描いたのではないでしょうか。

 先生に「何を描いてる!」とよく叱られたものですが、今考えると「多様性への憧憬」ですと答えれば良かった。LOL

 水木さんは、ゲゲゲの鬼太郎のみならず、「悪魔くん」「河童の三平」などでも、妖怪や悪魔といった本来異形の存在を実に親しみやすいものとして描いています。

*1:江戸時代から始まった本を賃料をとって貸す業態。印刷技術のなかった時代ならではの商売。明治時代にも絶えることなく続き、第二次世界戦争後、漫画・大衆本を貸し出すエンタメ業として繁栄した。

其の62 昭和の名ブランディング・Music Player ②

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初代Walkman
<  中学生時代に、高校受験に必要なラジオ講座を聴かねばならぬと親を説き伏せて(脅して?)買ってもらったラジオ*1が私にとっての最初のMusic Playerだったと前回書きました。ラジカセはまだ高くて手が届かず、専らリアルタイム聴取しかしていなかったわけですね。

  高校の頃はラジカセにステレオプレイヤー双方を持っていて、住んでいたところから程近い駿河台にあったディスクユニオン秋葉原の家電量販店で海外ミュージシャンのレコードをなけなしの小遣いをはたいて買っていたことを思い出します。



  今と違って、音楽ソフト、レコードですね、これは貴重なもので、まずは店頭でお目当てのLP*2をレコードプレイヤーに掛けてもらい試聴して、吟味の結果購入して、帰宅してからドキドキしながら全編を聴くのです。いまのひとはLPというとまずLanding Pageを思い浮かべるんでしょうね。☺️

  理由は思い出せませんが、なぜか洋楽ばかり聴いていました。ハードロックが全盛期を迎えた頃で、ステレオプレイヤーの前に座り込み、大きなヘッドホンでLed ZeppelinDeep Purple、Mountainなどの大音量ロックを忽然と聴いていましたね。Led Zeppelinは特に予想のつかない音楽を展開してくれ、まさにドキドキして新曲のImmigrant Songなんかを聴いて「なんじゃこりぁ!」と鳥肌を立てていたんです。


  さて、それだけ貴重な音楽リスニング体験だったのに、music player、再生機器については製品銘柄が全く思い出せないのです。
  これってつまりは、機器としてはそこに間違いなくあったのですが、ブランドではなかった、私の脳にはブランドイメージが形成されていなかったことに他なりません。

  実は私の脳内ブランドとして存在するmusic playerは、広告受験勉強時代のラジオWorld Boyの次は、高校時代、大学時代の8年間(大学で1ヶ年留年したんで8年間。😀)をすっ飛ばして、社会人になってからのものになるんです。

  それはWalkmanです。SonyWalkman

  カセット再生機器は録音再生するもの、つまりカセット・レコードプレイヤーというのが常識だった1979年に、まさに独創的な再生オンリーのこのステレオカセットプレイヤーは登場しました。

  衝撃的という言葉がぴったりの新製品。ほんとに「どーいうこと?」っていうのが正直な感想。

  タイトルにも付けましたが、Music Playerっていうのは、室内に鎮座するものでした。それがラジオであろうが、ステレオセットであろうが、ラジカセであろうが・・・

  外部では聴けません。決して。

  いつまであったのでしょうか、昭和の時代にはクラッシック音楽を高音質で聴かせる「名曲喫茶」や、ジャズ音楽を聴かせるジャズ喫茶というのがいたるところにありました。

  洋楽ロック漬けの私も、気持ちを落ち着けたい時には当時通学に使っていた御茶ノ水駅の近くにある、名前は忘れましたが、名曲喫茶に行き、香り豊かなコーヒーをちんまりと頂いていました。

  その名曲喫茶もジャズ喫茶も外部じゃありません、家ではありませんが、れっきとした室内なわけです。

  話をWalkmanに戻します。

  外を歩きながらカセットに録音した音楽を自分だけで聴く。今は当たり前になった外で自分だけの音楽を聴くという行動様式は全く、影も形もなかったわけです。

  外でヘッドホンをして何かを聴いている人がいたとしたら、それは小型ラジオから片耳イヤホンで、競馬中継を聴いているか、株の値動きをチェックしているおじさん、と相場は決まっていたのです。

  外でヘッドホンをして自分だけでステレオ音楽を聴く。なんと斬新な! ほんとにびっくりしたんです、笑わないでください。

  他の人からどう見えるんだろうか? そんなことして馬鹿じゃないのかとか思われないだろうか? とあれやこれや買ってもいないのに心配した記憶があります。

  Walkmanの開発は実はSony創始者のひとり井深大氏が、出張機内で音楽を聞きたい、再生機能さえあればいいからということで、自分用に開発を社内に頼んだのがきっかけの由。できたプロトタイプを見たあの盛田昭夫氏が「これはいける」と直感して正式に商品開発を進めたそうです。

  アイデアマンの盛田さんは、プレスリリースを通常ではなく、都内の某公園に雑誌メディアを招待して行い、Walkmanを楽しむ若い男女の姿を披露し、雑誌タイアップの大量出稿をゲットしたそうです。

  新製品ブランディングはPRですべき、と言う米国の著名なブランディングコンサルタントのアル・ライズさんの主張を本ブログ其の21でご紹介しましたが、遥か以前に盛田さんはこれを地で行っていたわけですよね。

  まさに盛田氏はWalkmanをただのMusic Playerではなく、自分だけの音楽を室内から外に連れ出して楽しむという、若者のライフスタイルとして訴求したんです。

  ブランド付加価値は「解放」にあったのだと思います。音楽を狭い室内から解放する、自分を解放するというダブルミーニング

  もちろんステレオ音楽を高音質で再生する技術の凄さはあったのですが、それはあくまでもU.S.P.*3の範囲です。それを超えた先にある、人を共感させるブランド価値は「解放」だったと思うんですね。

  発売の翌年、社会人になったばかりの新入社員の私はWalkmanを買いました。確か初ボーナスを使ったと思います。

  大手広告代理店の熾烈な業務の毎日でストレスマックスだった私は、通勤の道すがらWalkmanで好きな洋楽ロックを聴いてひととき「自己解放」をしていたんだと確信します。

  落ち込んだときは、というか先輩にしごかれて殆ど毎日落ち込んでいましたけど、そんな時は確かLed Zeppelinの移民の歌を聴いて自分をチアアップしていたように記憶しています。それかイージーライダーの主題歌に使われたSteppen WolfのBorn to Be Wild。だったかな。

  今スポーツ選手が試合の前にスマホで勝負ミュージックを聴いているのと同じですね。私は40年前ですけど。☺️

 私はWalkmanの写真を見ると、仕事も半端で叱り飛ばされていた、情けない若手社員時代を思い出し、切ない気分になります。音楽はひとの思い出の断片と密着しているんですね。

*1:ナショナル、現パナソニックのWorld Boy

*2:Long Playing Recordの略です。直径30センチで片面20〜30分の録音。これに対比して短い録音時間のシングル盤があった。

*3:自社製品独自のfunctional benefitの定義と約束を意味するマーケティング用語

其の61 昭和の名ブランディング・Music Player

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グラモフォン(蓄音機)

音楽再生機器、英語ではMusic Playerというのでしょうか、これは音楽の記録ソフトの変遷と歩みを合わせて進化してきました。
表裏一体。

世界で初めて再生可能なレコードを1877年に発明したのはエジソンフォノグラフと呼ばれました。日本語訳は蓄音機。

当初は音楽再生ではなく、盲人補助のための機器として開発されました。

10年後の1887年にドイツ出身のアメリカの発明家、エミール・ベルリナーが円盤型の記録媒体を利用したグラモフォンを発明し、音楽の再生に利用しました。

エジソンの媒体が円筒型であるのに対して、ベルリナーの平面状のそれは複製がしやすく、真ん中にレーベルを貼ることもでき、結果的に市場を支配することになったわけです。

このレコードを再生する機器、Music Playerとしてレコードプレイヤーが同時に開発されました。それはそうです。記録盤のレコードだけあっても、耳をつけても音は聞こえてきません。

レコードに次ぐ記録媒体は、磁気で記録をするテープレコーダーで、1935年にドイツの電機メーカーのAEGが市販を始めたマグネトフォンです。同じくドイツのBASFがテープの品質改善をおこなって、飛躍的にクオリティが上がっていき、第二次世界大戦中、長時間にわたるヒトラーの演説記録やベルリンフィルの演奏なども録音されるようになりました。

その後、音楽の記録媒体は、digital 時代に突入してCompact Discを経て、ついに音データをコンピューターシステムに格納する現在の音楽ファイルの時代となったわけです。

さて、これらの記録媒体の変遷と私の個人的なMusic Playerの変遷についての記憶の話をしたいと思います。

自分史上初めてのそれは、親に頼み込んで中学生2年の時に買ってもらった、パナソニックのWorld Boyというラジオです。

別にラジオカセット>>
当時ラジオカセットはまだとてつもなく高かったんです。<<ではなく、ラジオ機能しかないので記録はできないわけです。オンエアされているラジオ電波のみ。局側がライブ放送しているか、録音放送をしているかに関係なく、私は常にライブで聞いていたわけです。

記録媒体の変遷に合わせて、と言いましたが、最初は電波媒体を受信するのみでした。記録不可。😁

親には受験勉強に必要なんだと言い張って買ってもらったと思います。何の番組をだしに使ったのかよく覚えていませんが。難関の私立高校を受験するのでマストなんだ、と親を脅したのかも知れません。😀

実際は受験勉強系の番組なんかこれっぽっちも聞いてはおらず、夢中になっていたのは殆ど日本放送のリジェンド番組の「オールナイトニッポン*1でした。


私が中学2年だった1970年は、放送開始から3年たった頃、当時文化放送のセイヤングと日本放送のオールナイトニッポンはそれまでの深夜放送枠の型を打ち破った革新的な深夜帯番組でした。

テレビ番組が主要メディアとして破竹の勢いであったことに脅威を覚え、若者層を取り入れる対抗策としての深夜枠の大変革だったのでしょう。

実は私のあたまの中ではこの深夜の相棒だったラジオにまつわるブランド記憶が混乱しています。

私がその相棒World BoyのTVCMとして記憶していた一篇は、黒人の青年がWorld Boyを愛おしそうに抱きしめながらラジオから流れてくる母国の放送を聴き、母を思い落涙する、というものでした。

Voice-of-Americaを始めとし英国のBBCやオランダのRadio Netherlandなど世界の短波放送を受信できるといいう訴求をするそのTVCMで、私のアタマの中でそのラジオが世界へ開く窓口というブランド価値が出来上がったのです。

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from YouTube

でも、実はこれはWorld Boyの宣伝でなく、クーガという別の商品でした。1975年にそのCMがオンエアされた頃は、私は既に高校も卒業し、大学生でした。




話は戻ります。私が買ってもらったラジオはこのクーガではなかったんですけど、World Boyも名前からして世界とつながる感がありますよね。

実際には世界どころか、ニッポン放送のある有楽町と繋がっていただけなんです。😀

でも当時画期的な番組だったオールナイトニッポンのDJを務める局社員の高嶋秀武や亀渕昭信が、次々と紹介してくれる欧米のミュージシャンたちのロックは衝撃的で、レッドツェッペリンやジミヘンを知ったのもこの番組だったんです。その意味で、心はロンドンやロサンゼルスに飛んでいたわけです。

ラジオに感じていたブランド、世界とつながる気分、はそのパナソニックのラジオが私の脳に撃ち込んだブランドイメージでありました。

この時の「(英語で)世界とつながる気分」に魅せられたのだと思いますが、私はその後、大学で英字新聞の編集部員を務め、某新聞社の外信部で特派員電の書き起こしのアルバイトをし、卒業後は広告代理店で海外担当となっていくのです。

そして妻は・・・日本人でしたが、時々意思疎通ができなくなるので、外人みたいなもんです。😀


レコードにつぐ記録媒体はカセットテープです。表裏一体のMusic Playerはラジオカセットテープレコーダーです。ラジカセ。今の若い人には死語ですよね。それは次の項で。

*1:1967年に放送開始した日本放送の深夜番組。25時〜29時

其の60 昭和の名ブランディング・「パパ良かったね」

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アデランスTVCMより

ブランドの目指す「志」をスローガンにしたものをブランド・スローガンと言いますが、表現の場において、ブランド名の近くに置かれたものをショルダー・コピーとかタグラインと呼びます。

日本ではブランディングは商品そのものよりも、企業自身のイメージを表現するものと考えられているのが実情なので、タグラインは必然的にコーポレート・スローガンが多いんです。

分かりやすい例をあげますね。

NO MUSIC NO LIFE
TOWER RECORD

HITACHI
INSPIRE THE NEXT

HONDA
THE POWER OF THE DREAM

どれも企業の志を端的に表現している名タグラインです。

今回は私のアタマの中に強く残っている、昭和時代のブランド寄りの名タグラインを取り上げたいと思います。

この会社の場合ブランドと共通になるのですが、それはアデランスです。

言わずと知れた、総合毛髪企業、わかりやすく言えばカツラ・メーカーです。
メーカーの方は「ウィッグ」と言いますね。

現在はこの業界は、男性用については、ウィッグから増毛系商品に軸足を移していますが、今回お話ししたいのは、ウィッグ全盛期の時代のアデランスの名キャンペーンについてです。

タグライン*1は「パパ、アデランスにして良かったね。」

アデランスの創業は1968年。同業のアードネイチャーは1年前の1967年に創業されています。
ご存知の通りアデランスとアートネイチャーはウィッグ業界の二大双璧をなすライバルです。

女性カツラ会社の営業だった創業者の根本信男氏が、自分の会社を起業してアデランスを始めたわけですが、創業数年後に画期的なTVCMを開始し、快進撃を始めることになります。

そのCMはこれ。



youtu.be



その経緯をノンフィクションライターの窪田順生さんが以下のように書いています*2

一戸建て住宅に住む家族。可愛い娘二人と美しい妻が楽しそうに食卓を囲む中で、男性だけは鏡の前で薄い毛をなでつけながら浮かない顔。シーンが変わり、鏡に映るボリュームアップした男性の髪の毛。ニコニコ顔で出勤しようとする父親に娘たちが抱きついて言う。「パパ、アデランスにしてよかったね。」

40代くらいの方ならば、うっすらと覚えているだろうこのCMによって、もともと存在していた「ハゲ=恥」という風潮をさらに進化させ、「ハゲを隠した男は幸せになる」というイメージを訴求したのだ。

かつらが日陰の存在で、悩みを抱える男性に深夜ひっそりと広告を流すのがお決まり、業界最大手のアートネイチャーも深夜11時以降にしか放送していなかった当時、夜6〜7時台にファミリー向けに打ったアデランスのCMは衝撃的だった。

その狙いは、かつらをつけてから家庭が明るくなったというイメージを与え、奥さんや好感を持たせるようことにある、と窪田は当時の宣伝企画課長から聞き出しています。

このCM効果もあり、アデランスはライバルのアートネイチャーを追い抜き業界トップに躍進します。

窪田は、アデランスが「ハゲを隠した男は幸せになる」というプロパガンダを見事に成功させたことを意味すると明言しています。

これはある意味の恐怖訴求ですよね。バレたらどうする?的な。
確かに隠すという意味ではバレたら困るので、一個50万以上するような高額商品のウィッグですが、壊れたときの修理期間のスペアとして、替えの同じウィッグを用意しておく、つまり2個体制をユーザーは取ることになり、売り上げが着実に上がるビジネスモデルとなっていったんですね。


強いブランディングは、人間が無意識下に持っている心理的欲求に根差すと言われます。マズローはそれを5段階の欲求で説明し、マレーは更に深堀り28もの心理欲求を提示しました。

マレーがあげた28の心理的欲求の一つが屈辱回避欲求(”恥をかきたくない”)です。アデランスの展開した恐怖訴求はこの屈辱回避欲求にドンピシャで食い込んでいます。


でも、アデランスはブランディング的にまた別な角度でも心理欲求を掬い上げていたのではないかと確信します。

それは、マレーとマズローが共通してあげている「承認欲求」、認めて欲しいとう強い心理欲求です。

自分の子供に「パパ良かったね」と距離近く言われたいという強い動機に火をつけています。CMでは子供がこのセリフを言っていますが、奥さんもパパと呼ぶはずですから、ダブルミーニングで心に刺さるはずです。

私の個人的な見立てですが、このCMは二つの心理的欲求を満たすとても強いブランディング効果を秘めているんです。


さて、この「パパアデランスにして良かったね」名CMから時代は下り・・・

ハゲは隠すもの、恥ずかしいものというテーゼは高度成長期と歩を合わせるように拡散していきましたが、バブル崩壊後の1990年代以降、むしろ隠さず堂々とカミングアウトするのがトレンドになっていきます。

俳優でいえば、高橋克実竹中直人渡辺謙。薄毛を自分の個性として隠さない。外国の俳優で言わずと知れたショーン・コネリー
また、薄毛になると刈り込みスキンヘッドにするのも流行り始めて、むしろそちらの方が格好いいという評価も。例えば、外国の俳優のブルース・ウィルスジェイソン・ステイサム

2000年代以降には、むしろウィッグで隠すことの方が恥ずかしいと思われる機運が高まってきたように思えます。

実業界でもアップルのスティーブ・ジョブズは薄毛を隠してはいませんでしたし、アマゾンのジェフ・ベゾスはスキンヘッドです。ソフトバンク孫正義はしばしば自分のハゲをネタにしてスピーチをします。

ウィグのマーケティング的には逆風、いやウィグがすっ飛んでしまいそうな暴風雨が続いて久しいわけで、アデランス、アートネイチャー共に宣伝広告をしている製品サービスは今や増毛分野や育毛発毛分野に軸足を移しています。

高い技術力を生かした増毛法や定額増毛というシステムなど、両社ともfact-orientedな訴求をきっちりと行っています。

でも。
ブランディング・ファースト主義者の私☺️から見ると、これらの訴求は極めてごもっともですが、いわゆるU.S.P.訴求の域を脱していないのではないかと思えてなりません。

アデランス、アートネイチャー両社から言わせれば、我が社の技術の独自性は優位性があり・・・ということになるのでしょうが、U.S.P. マーケティングの弱点は競合が一歩先をいくと、そこで逆転されてしまい、Uniqueness (独自性)が失われてしまうことなんです。

今や両者の課題はU.S.P.の先にあるユーザーの共感をゲットできる感情的なブランディング付加価値を構築することにあるはずです。


アデランスは2011年に芦田愛菜を起用してこの「パパアデランスにして良かったね」CMを復活させましたが、長続きはしませんでした。


youtu.be

時代は妻子が父を思うような時代ではなくなって、関係性が疎になってしまったことが原因なのではないでしょうか。

ターゲット層の感情を揺さぶるブランド付加価値の核はなにか他に現代的に強いものを探す必要があるのだと思います。



それはなにか? それはまたいつか。😀

*1:キャッチコピーとも言われます

*2:ITmediaビジネス ONLINE 2016年10月