1965年〜67年ごろ、CMと言えば、むやみと商品名を連呼したり、人騒がせな惹句をまくしたてたりする泥くさいものか、さもなけば、商品カタログをなぞるだけのいたって退屈なものというのが世間の通り相場であって、さきの記事に「CMという言葉の持つ押しつけがましさ、いやらしさ」とあるのも、CMの一般論であるよりは、当時のこうしたCM事情を伝えるものであったろう。
それだけに、「イエイエ」のさぐり当てた洗練された明るさ、楽しさ、リズム感、ひとことで言って「現代的」な感覚にうったえるエンターテインメント性はまさしく画期的というに値し、それに気がついたCMの作り手は争ってこの豊かな鉱脈にとりついたのだった。
向井 敏さん著の「紋章だけの王国」からの引用です。
前回から続けて読んでいただいている方にはお分かりでしょうが、この段落は1967年に放送された東レの合成繊維ニットウェアのTVCM ”イエイエ” の礼賛です。
さきの記事、とあるのは朝日新聞がこの TVCMを褒めちぎった記事のことです。
アンダーラインを引きましたが、「CMという言葉の持つ押し付けがましさ、いやらしさ」というのが当時のアンチCMの通り相場的気分を表しています。向井さんもこの記事を紹介しつつ、同意している様子です。
でも。ちょっと待ってください。 TVCM、Television Commercial Messageですね、これって企業が多額の広告予算を投じ放映枠を買って、その枠に素材を流してモノ・サービスを皆に購入してもらおう、っていう企業活動なわけですよ。
15秒スポットの中で、できるだけ商品メッセージを入れ込みたいと考えるのが自然です。企業側の立場にたてば当たり前の成り行きです。
それを「押し付けがましい。いやらしい。」と言われたんじゃ立つ瀬がありません。
訴求する、ってことは別な言い方をすれば押しつけることですから。「これから訴求していいですか?」とは聞きませんよ。😀
記事を書いた朝日新聞記者さんの心の中ではどこかにきっと「公共の電波を使って、宣伝広告するなんて、いやらしい」という気持ちがあったんでしょうね。
公共の電波に流す番組枠の一部を企業に広告枠として売っているんだから、いやらしいのはまずは民放各社というのがロジックですよね。☺️
と、まぁ企業側の目線で考えてみました。でも私は企業と消費者・購買者の間を取り持ってきた広告人なので、どちらの言い分もわかるんです、実際。
メッセージを受ける側から言えば、そりゃ動くカタログみたいなメッセージてんこ盛りなCMなんて何の魅力もないし、心に届かないっしょ、と言うのが素直な反応です。
以前ご紹介しましたが、この点については元電通大阪のクリエイター、現在近畿大学教授の山本良二さんの言葉が実に説得力があります。
其の22で書きましたが、山本氏は宣伝会議のインタビューで以前勤めていた電通での仕事を振り返って、以下のように発言しています。
「広告を見たい人なんて、一人もいない。そういう前提に立って企画することが大事なんや、そう言われながら仕事をしてきました。」
「しかも15秒CMなんてあっという間に終わってしまいます。あなたが冷蔵庫から缶ビールを取り出してひと口飲む前に、僕たちがつくったCMは既に終わっているのです。当然のことです。CMなんかを見るよりもおいしいビールが飲みたい。そう思うのが人間というものです。」
「CMなんか」。そうですよね。先述の朝日新聞の記者さんもそう思っていたはずです。
「CMなんか」と思われているからこそ、工夫を凝らして視聴者の心にメッセージを打ち込むことにクリエイターは心血を注ぐわけです。
そうした観点から作られたか、それともそれまでの15秒、いや5秒の一言勝負のCMに対するアンチテーゼだったのか、実際のところは分かりませんが、東レの「イエイエ」は世に登場し、喝采を受けました。
しかしです。業界で「イエイエ以降」という言葉ができたとは言え、その後のTVCMが一斉にイエイエ的フィーリングCM*1一辺倒になったわけではありません。
1967年*2は、実は商品の持つ主張や特性を一つのテーマに集約し、それを商品に即してアピールするという、いわゆるコンセプトCM作法、当時の用語法に従えば、「セールス・ポイントをセールス・アイデアに転化させる」構成法が力を得ようとしていた年でもあった。
と、向井さんは書いています。
氏が「セールス・ポイントをセールス・アイデアに転化させる」構成法と表現したコンセプトCM作法とは、今で言うU.S.P.アプローチでしょう。
「この系統のCMでは記念碑的な力作」として挙げられているのが、セメダインのCMです。イエイエと同じ1967年に放映されています。
どんなCMだったか。
セメダインで接合した2枚の鉄板を2台のブルドーザーでひきはがそうとかかるのだが、逆にブルドーザーにつないだ太い鉄鎖が音を立てて断ち切れるという、接着能力を劇的に実証するCMで、語られることばも「セメダインで困るのは一度接合したら二度と引き離すことができないことです。」と直截鮮明。企業の主張、商品の特性の明確なテーマ化という点で、当時はもとより、今なおこれをしのぐCMは数少ない。
と、氏はこのCMを絶賛しています。
残念ながらYouTubeで調べてもこのCMは出てきません。
ですが、私は鮮明に記憶していますので、相当インパクトのあるCMだったんです。
よく接着されるという特長を、驚くほど「剥がすことができない」という地点まで表現したことの訴求力の強さでした。
まだ小学生だった私は「じゃあ、指に付いてしまったらどうなるんだ。ナイフで皮膚を切るしかないじゃないか!」と恐怖心を覚えた記憶があります。
このCMの系譜はその後、瞬間接着剤のアロンアルファに引き継がれます。
ヘルメットを被った人がオートバイをウィリーして、前方のアロンアルファを塗布した板に前輪をぶつけると、前輪が板にくっついてしまい、ドライバーはバイクから降車する・・・というCM*3、記憶にありません?
まぁブルドーザーも、バイクにしても、こんな接着用途はあり得ませんけど、極端に振る手はコミュニケーション・テクニックの常道ですから。
さて、このイメージとU.S.P.の二大アプローチのCM史におけるその後の進捗については、次回考察したいと思います。